橋本遊廓跡を歩く'08秋 その2

先日公開していた前編の続きです。
今までは表側からそ〜っと撮影していた私ですが、
この日は、地元・橋本出身のマイミクさんのご紹介で、
お宅の中まで拝見・撮影することができました!


まずは、「多津美旅館」さん。
こちらは現在でも旅館として営業されています。


この日は玄関まで入らせていただきました。


男女のダンスが描かれています。

後ろからはライトが当てられます。
この大きなステンドグラスにしばし見とれてしまいました。


そして、玄関にはもうひとつ。

アーチ状のタイル&グラス細工


続いてはとあるお宅の玄関。
改装されずに、当時のまま残されています。


見事なタイル細工です。


当時はタイルの色がもっと鮮やかだったとか。
そんな華やかな時代、見てみたかった!


そして、橋本の南側にある銭湯「橋本湯」さん。


基本的に、娼妓さんと廓は家族同然の付き合いだったそうですが、
彼女達もお風呂だけはこちらに入りに来られていたそうです。
側面から、橋本の長い歴史を見つめ続けてきた、そんなお風呂なのですね。


開店前に入らせていただき、撮影させていただいたのはこちら。

「辻よし楼」寄贈の木製ベンチです。
本店と支店の電話番号がありますが、ひとケタ!
昭和初期ごろのものでしょうか?
大店だったのでしょうね。


この橋本湯の前にあったのが「石柱」の跡。

道路を挟んでふたつありますが、
以前はここにネオン付きのアーチがかかっていたそうです。
まさに、ここが入り口だったのですね。



そして、この日のメインイベント、
マイミクさんのお宅探訪に突入です。


なんと、江戸期からこの地にいらっしゃり、
もともとは料理旅館をされていたそうです。
幕末の鳥羽伏見の戦いで、もともとの建物は全焼してしまったそうですが、
箪笥や小物などは持って逃げられていたそうで、
今でも当時のものが残されていました。すごい!


余談ですが、橋本は鳥羽伏見の戦いで、新選組などの幕府軍
体勢を立て直すために陣を張ったところでもあります。
しかし、同盟だったはずの津藩が対岸の大山崎で寝返り、
橋本へ向けて砲撃。幕府軍は総崩れとなった、歴史的な場所でもあります。


ちなみにここで佐々木只三郎山崎烝が致命傷を負い、
吉村貫一郎が行方不明となりました。


さて、本題です。


当時一階は、通りに面した建物は廓として、
奥の建物を居住スペースとして使われていたそうですが、
その間には大きなお庭がありました。

当時、京都の寺院に出入りしている庭師が作ったそうです。
立派ですね。


欄間の細工も、細かくて素敵。

何度見ても思いますが、遊郭建築は
さまざまな職人の技が至るところに見られます。


廊下にもちょっとした遊びが。




そしていよいよ二階へ上がる階段です。

横にある小窓から、お客様を「チェック」されていたそうです。


二階に上がると、細かい部屋がいくつもありました。

多くの男性が、心を躍らせてこの階段を上がったのですね。


そしてひとつひとつの部屋の上にはこのような意匠。

何かあったときに、声が通るようになってるのかな?


ほとんどの部屋は三畳半でした。

娼妓さんたちはここに住み込まれていたわけです。
ちなみに、全ての部屋に床の間がありました。


これらの部屋を活用して、
昭和33年以降、しばらくは旅館をされていたそうです。
旅館やアパートに転業される理由が分かりますね。


中にはふたつの部屋を合体させて6畳にされている部屋も。



と、本当にじっくりとお宅の中を拝見させていただいてしまいました。
さらにはマイミクさんのお母様に長〜い橋本の歴史も語っていただき、
私にとってかなり充実した時間を過ごすことができました。
本当に感謝しています、ありがとうございました!



話を伺っていると、今でもぶらっと橋本を訪ねてくる、当時を知る方が
結構いらっしゃるそうです。
その方々にとってはいろんな想い出が詰まっている街なのですね。
しかし、次々と当時の建物が消えていくのは少し寂しい気分なのかもしれません。



なぜか、タイムスリップしたような、不思議な気持ちになれる街、橋本。
少しでも長く、この街並みを残していただければなぁ。
勝手ながら、そんなことを願って、この日は橋本を後にしたのでした。