撞木町遊廓

先週の橋本に引き続き、京の旧遊廓を歩く。
撞木町は伏見夷町とも呼ばれ、慶長年間(1600年ごろ)に開設され、
伏見の発展と共に元禄期に全盛を迎えた由緒ある廓だそうだ。



入り口には二本の門柱が残っている。

その昔、男たちは心躍らせてこの門をくぐっていたのだろう。


左側

「志ゆもく町廓入口」とある。


右側

こちらは漢字で「撞木町廓入口」


残念ながら橋本のように、当時の面影を残している建物はほとんどない。


古い建物ではあるが、廓とは関係なさそう・・・



そんななか、当時を物語る石碑が残っていた。
上の部分の損傷が目立っているが・・・



撞木町廓碑

大正七年に建てられたものらしい。


橦木町廓之碑 ○「橦」字原碑ノママ

絶世の英雄豊太閤伏見城を築くに及び伏見の殷賑は一躍して天下の中
枢となれり当遊郭は此殷賑時代の創設にかゝり慶長元年林又五郎なるもの ○「五」字「一」ノ誤カ
伏見田町に遊郭を起したるを其前身とし伏見落城後幾くもなく廃滅に帰せしかば
渡辺掃部前原八右衛門の両名は時の伏見奉行長田喜兵衛芝山小兵衛に請ひ慶
長九年十二月二日富田信濃守邸址を開地して再興す花街の形状撞木に似
たるにより撞木町の名あり実に今を距る三百十四年の昔なり其後
幾盛衰を経たるが元禄宝永の頃は最も繁栄せしものゝ如く各書には都に近
く島原の流れを汲めるにより鄙びずと嘗て京都の公家衆の多数が屡々来遊せし
事をも載す殊に赤穂義士大石良雄が敵を欺く佯狂苦肉の一策として
遊郭笹屋清左衛門方に遊興せることは人口に膾炙せられ義士の名と
ともに撞木町の名は天下に伝はり且義士が此処に復讐の謀議を凝らして
目的を達せるより後来当遊郭に於て謀議する時は何事も成就すべしとて
来遊する人々多しと云
大正七年十一月 高橋桃城誌
遊雲散士書


これを見ると、もともとは秀吉が慶長元年に廓を作らせ、
慶長9年に今の地に移ったとされている。
島原の流れを汲むということはそれだけで格式を感じる。


もうひとつ建っていたのはお店の跡を示す碑。



大石良雄遊興地よろづや

大石良雄大石内蔵助のこと。



赤穂浪士を率いる大石内蔵助がここで遊んでいると見せかけて
討ち入りの策を練っていたという話を聞いたことがあったが、
ここにあった「よろづや」というお店にいたらしい。
こちらは大正13年に建てられたものだった。


せめて、せめてもう少し面影を残してくれていれば・・・
とどの街に行っても思ってしまう。


そういえば近所にあった「DX伏見」も無くなっていた。